デザイナー「佐藤 可士和(さとう かしわ)」がデザインしたセブインレブンのコーヒーメーカーに、使用されたイラストや記号がわかりにくいとして、テプラで説明がベタベタと貼られている画像が、以前インターネットを中心に話題となりました。
ここ最近も、銀座にあるLoFTにて、おしゃれにデザインされた案内看板が理解しにくいとしてテプラが貼られてしまい、これらは「デザインの敗北」と呼ばれ話題となっています。
なぜ、テプラが貼られてしまうのでしょうか?なぜデザインの敗北なのでしょうか?なぜ、デザイナーは日本語での表記を嫌うのでしょうか?
今回は、デザインの敗北とその事例を紹介すると共に、情報の優劣(情報訴求力)とテプラの強さについてご紹介したいと思います。
「デザインの敗北」という言葉が一般に知られるようになったのは、おそらく佐藤可士和デザインのセブンイレブンのコーヒーメーカーに、テプラや手書きで日本語の解説が追加された一件かと思います。
文字にせずとも直感的に理解できるデザインを良い物だとするなら、また無駄を極限まで省いたシンプルなデザインを良いものだとするのであれば、確かにそれを追求するがあまり理解しにくいデザインとなってしまってテプラや張り紙で解説文章が書かれてしまうのは、デザインの敗北と言えるかもしれません。
まずは、「デザインの敗北」と言われる場面を見てみましょう。
おそらく「デザインの敗北」という言葉が使われるようになった最初の案件がこの、佐藤可士和氏がデザインしたセブンイレブンのコーヒーメーカーだと思います。
佐藤可士和氏が過去にデザインしたウイダーinゼリーのパッケージも、シンプルでスタイリッシュなものにしすぎたせいか、売り上げが下がったという事もありました。
それによって佐藤可士和氏が叩かれ始めた最中にこのコーヒーメーカーがリリースされ、「デザインの敗北」というパワーワードと共に話題になってしまったと言えるでしょう。
2017年の年末あたりに話題になった「デザインの敗北」が、銀座LoFTのフロア案内板です。「6階はネクストクリエーションのフロアです」と言われても、確かに難しいですね。
ホームソリューションというのは、まあなんとなく生活雑貨な感じがしますけど、あまり親切さは無いように感じてしまいます。この看板も、テプラによって修正されています。
ここからは、テプラや張り紙によって修正されてしまった、いわゆる「デザインの敗北」が発生してしまった画像たちを立て続けに紹介していきます。
デザインの敗北 pic.twitter.com/g5BgndS8CU
— 静岡茶 (@shizu_cha) 2017年1月23日
デザインの敗北って感じ、嫌いじゃないです pic.twitter.com/9vYvdZKhmc
— なゆ (@nayuneko) 2016年9月25日
このデザインの完全敗北感たるや pic.twitter.com/fGl65z8euu
— たま (@spicaocean) 2016年12月9日
『デザインの敗北』 pic.twitter.com/RmjSDmsKNc
— s_matashiro (@glasscatfish) 2016年8月13日
佐世保の片隅で、デザインの敗北を見た pic.twitter.com/a2wVn3hdV4
— ていぎレクイエム (@best_formation) 2016年8月22日
さて、なぜ「デザインの敗北」が発生してしまうのかというと、それは「情報の優劣(情報訴求力)」と呼ばれる、文字や記号やイラストや図形の、大きさや形や色で変化する「優位性」が適切にデザインされておらず、何を指し示しているのかが不明瞭となってしまうからです。
案内板や解説看板などに書かれている文字の大きさは声の大きさとデザイン業界で言われることがありますが、人間は大きな文字に対し大きな声で言われているように感じます。
つまり「伝わりの良さ」だけを考えれば文字が大きければ大きいほどに相手に伝わるわけですが、耳元で大声を出されるとストレスが貯まるように、大きな文字が視界に大量に入ってくることは、生きにくい世界を作ることでもあります。
このように、「情報の優劣(情報訴求力)」を適切に使いこなしながら、人間がストレスを感じることなく日常生活や目的の行動が行えるようにデザインされたものをデザイナーは作ろうとするわけですが、それに失敗してしまうと大声で情報を伝えるためにテプラや張り紙などで大きな文字を貼られてしまい「デザインの敗北」と言われてしまうわけです。
そんな「デザインの敗北」が発生してしまう原因の1つとも言える情報の優劣について、より「デザインの敗北」を楽しむためにおさらいしておきましょう。
エスカレーターのイラストがあります。この段階では、上りのエスカレーターなのか下りのエスカレーターなのかがわかりません。このままだと「上り!」とか「下り!」とかテプラで貼られてしまいますね。
さて、エスカレーターに乗っている人に「鼻」をつけたらどうでしょうか?これによって進行方向がわかるため、おそらくこれが文字や記号を一切使用することなく、このエスカレーターが下りのエスカレーターであることを指し示すミニマルなデザインと言えます。
しかし、先ほどのイラストに、上へ向かう矢印をつけたらどうでしょうか?「なんらかの理由があって後ろ向きで上りエスカレーターに登っている人」に見えてきませんか?
現実の世界にこのようなイラストの看板があったとしたら、上りエスカレーターの看板なのに、デザイナーが人間の向きを間違えてしまった、という風に感じ取れるかと思います。
これは、イラストよりも記号の方が情報の優位性が高い、という事です。
さて、先ほどの人間の向きと矢印の向きが逆方向となっているが、なんとなく上りエスカレーターの看板ではないかと感じるデザインに「下り」という文字を追加してみたらどうでしょうか?
もうイラストや記号がぐちゃぐちゃだけど、おそらくこの先にあるのは下りのエスカレーターなのだろう!と多くの人は思うのではないでしょうか?
つまり、イラストや記号よりも文字の方が情報の優位性が高いということになります。この「文字はあらゆるデザインに対して強い」ということが、数多のデザインにテプラを貼らせ「デザインの敗北」と言われるようになった1つの原因と考えられます。
しかし、あらゆる場面で文字が強いかというとそういうことでもありません。例外もありますので、ここからはその「情報訴求力」という点にフォーカスしながら例外をご紹介します。
このような看板の前で立ち止まった人の多くは、文字よりも記号を優先して、とりあえず矢印にしたがって上の方を見てしまうと思います。
漢字を読むことよりも、ひらがなを読むことの方が容易で、文字を読むことよりも、記号を読むことの方が容易なため、この場合は文字よりも記号の方が優位性が高くなります。
この図形ですが、本当は正17角形です。しかし、何角形かを数えるのが面倒なため、多くの人は「ほほ〜正15角形なのか〜」と思ってしまうはずです。
このように、「情報を読み取るための労力」というのを人間は瞬時に判断し、記号から与えられる情報を優先するか、文字から与えられる情報を優先するかということを考えます。
コーヒーメーカーや看板などで使われるイラストやアイコンが抽象的なほどに文字の優位性は高くなります。反対に難しい漢字が使われていたり、理解しにくい英語表記の場合はイラストの優位性が高くなります。
人間には先入観というものが存在しており、民族や文化によってこの感覚は変化します。このルールを無視してしまうと、どんな良いデザインでも情報訴求力が下がってしまったり、他の情報に対して優位性が下がってしまうため理解しにくいデザインとなります。
トイレのマークは「形」と「色」に先入観がありますから、形と色のどちらかを変えてしまうだけで、かなり訴求力が低下します。その両方を変化させてしまったら、テプラ必須の「デザインの敗北」となること間違いありません。
同様に、温度を伝える場合にも色のイメージは強く先行します。
「HOT」や「COOL」のような英語は日本語よりも優位性が低下しますから、その状態で適切な色すら使わなかったらテプラ必須の「デザインの敗北」となること間違いなしです。
さて、ここで今一度「デザインの敗北」と、「敗北したデザイナー」に対する言及に戻りたいと思いますが、そもそも自身がデザインしたものにテプラが貼られた場合、そのデザイナーは無能なのでしょうか?
ツイッターなどでは「自分が作ったデザインのものにテプラを貼られたデザイナーは、額に”無能”ってテプラで貼られたのと同じ」という辛辣な意見も飛び出しています。センスありますね、思わず笑っちゃいました。
確かに、テプラなどで日本語の解説が付け加えられて、ようやくこれがなんのデザインだったのか、またはどうやって使うものだったのかが理解できるような説明不足なデザインは問題があるかと思いますので、それはデザインの敗北と言われても仕方がないことでしょう。
しかし僕は、あえてこれに少しだけ逆張り的な反対意見を出してみようと思います。
デザイナーはデザインをよりよく進化させていくべきであることは間違いないと思いますが、デザインを受け取る側の私たち(特に日本に住む日本人)もまた、成長すべきではないかと思うのです。
その理由は以下の2つ。
まず、我々日本人は他の国と比べて「漢字・ひらがな・カタカナ・ローマ字」と多様な文字を扱いすぎるが故に、文字の情報や言葉の意味するもの、ニュアンスといった部分に頼りすぎている節がないでしょうか?
そして、日本人は文字を愛しすぎています。そもそも漢字自体が文字を組み合わせて作られているという、文字が氾濫してしまう「デザインの敗北」とよく似た状態であり、日本人にとってデザインの敗北は起こるべくして起こっている問題だと思います。
映画のポスターなどでも、とにかく他国と比べて文字が多く、文字情報によって全てを伝えようとしているように伺えます。
そして2つめが、この「全てを伝えなきゃいけない」という状況。これは、多くの日本人が「全てを知りたい」と望んでいるからではないでしょうか?
トイレの説明や、洗面台の説明など、確かに説明不足な場所もありますが、圧倒的大多数の人が全ての機能を使用するわけでないのに、それを知らないと気が済まない、というか「もし使いたい人がいたとしたら」ということを考えてしまうというのが正しいかもしれません。
こういった感覚が、過剰なテプラや過剰な張り紙を誘発しているような気もします。
しかし、デザイナーサイドにも「英語のかっこよさに頼りすぎ」という点がある気がします。英語の発音や、アルファベットの記号としての造形、これらに頼りすぎて難解なデザイン(読み解くのに労力がかかるデザイン)になってしまっているのではないでしょうか?
日本語を優れたデザインに反映させられるデザイナーとしての能力と、文字情報に頼りすぎないで生きようとする我々が、共に成長しなければ日本は文字情報に埋め尽くされてしまい、日本という国自体が「デザインの敗北」を起こしてしまうのかもしれません。
日本の国旗はあんなにもシンプルで美しいデザインなのに、街はもうすでにデザインの敗北を起こしているような気がします。デザインが敗北しないように、作る側だけでなく、受け取る側も精進が必要な気がしています。