日本語ラップを草創期から支えた伝説的なラッパーの一人といえば、「OK Let’s Go」こと「吉幾三」さんです。
俗にいうヒップホップのミドルスクールの代表であるRun D.M.C.が1stアルバムの「Run-D.M.C.」をリリースした1984年の3月から遅れることおよそ約半年後、今尚語り継がれる名曲「俺ら東京さ行ぐだ」がリリースされ、その類まれなリリックとイルなフロウでスターダムを駆け上がり、ヒップホップドリームを掴みました。
そして現代では、多くのDJが様々な楽曲に「俺ら東京さ行ぐだ」のパンチラインをフューチャーしマッシュアップした楽曲をリリース、今最もコラボしたいラッパーとして支持されています。そんな、ラッパー吉幾三の魅力をご紹介しましょう。
ファンクやディスコの音源をサンプリングし、ブレイクビートと呼ばれるループミュージックがニューヨークを中心に人気を集め始めた1970年代に、ヒップホップと呼ばれる文化が産声をあげました。
ラップと呼ばれる歌い方や音楽ジャンルとしての文化が広く知られるようになったのは1988年以降。そんなラップが産声をあげたのは、1984年〜1987年のミドルスクール時代と呼ばれるRun D.M.C.やLL Cool Jといったラップアーティストによるものでした。
さて、ラップが誕生したと言われる1984年の音楽シーンといえば、アメリカではRun D.M.C.が1stアルバムの「Run-D.M.C.」をリリースした頃、日本では近藤真彦の「ケジメなさい」や、欧陽菲菲の「ラブ・イズ・オーバー」や、アルフィーの「星空のディスタンス」がブームとなっていた頃です。
そんな1984年11月25日、ついに日本にラッパーが誕生します。青森というスラムから東京への成り上がりを、押韻重視のリリックに乗せて独特なフロウで歌い上げた名曲「俺ら東京さ行ぐだ」によって・・・・・。
LL Cool Jの1stアルバム「Radio」がリリースされたのは1995年ですから、ラッパーである吉幾三はLL Cool Jの先輩ってことになるわけです。すごいぜ吉幾三!
「俺ら東京さ行ぐだ」がリリースされたのは1984年。
日本で最初にメジャーレーベルからリリースされた楽曲でラップが使用されたのは、1981年にリリースされたYMOの「ラップ現象」という曲ですから、日本初のラップミュージックではありません。
しかし吉幾三さんは「日本で初めてラップのヒット曲を出したのはオレ」とインタビューで語っています。
なぜ、このように人気を獲得することができたのか?この曲、分解して紐解いてみると、単純な技法としてのラップではなく、およそヒップホップと呼ばれる物が持つべき文化的な背景や、精神のような物を持ち合わせているというところが最大の魅力とも思えます。
「テレビも無エ ラジオも無エ 車もそれほど走って無エ」という、のっけからパンチラインを繰り出して始まるこの曲。まさにヒップホップの中でもとりわけラップミュージックにおける真髄とも言える「ゲットーやスラムからの成り上がり」を主題に置いている点に注目です。
そして、押韻を重視したリリックの書き方と、抑揚を抑えた独特なフロウとリズミカルなライミング、そして「俺らこんな村いやだ〜 俺らこんな村いやだ〜」という耳に馴染みの良い秀逸なフック、まさに完璧な楽曲と言えます。
また、ラッパーの必須条件とも言える「リアルな歌詞」や、今の日本人ラッパーの基本とも言える「方言使い」にも注目です。
ラッパー吉幾三がまだ、鎌田善人という名前の中学を卒業したばかりの青年だった1968年3月、夜行列車「津軽」に乗って上野駅19番線ホームに降り立った、その決意と自分自身の経験を方言を使ってラップしている事なども、日本のヒップホップ史に残すべき点と言えるでしょう。
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1972年に「山岡英二」の芸名でアイドル路線でデビューしたものの、同時期にデビューした野口五郎、西城秀樹、郷ひろみの「新御三家」の影に隠れて売れず。
「吉幾三」に改名し1977年に出したシングル「俺はぜったい!プレスリー」がヒットするも、友人の借金の連帯保証人になって借金取りに追われたり、大腸炎で入院するなど、貧乏な暮らしは続きました。
そんな中で、渡米した板前時代の先輩から送られてきたレコードに収録されていたラップ(時代的に、UTFO、LL cool J、Run D.M.C.、Whodini、あたりかもしれませんね)に着想を得て、地元青森の津軽弁を使い、ローカル色の強い歌詞で成り上がりを歌い上げた曲を完成させます。
「俺はぜったい!プレスリー」のヒットから7年後の1984年、ついに日本語ラップの伝説的なクラシックとして語り継がれることになる「俺ら東京さ行ぐだ」がリリースされたのです。
発売当初、吉幾三の地元などからは「そこまで酷くない。馬鹿にしているのか」と避難が飛び交ったようで、確かにこの曲がリリースされた1980年代に歌詞のような極端な田舎は存在していないと言われていますが、吉幾三が幼少期を過ごした1960〜70年代であれば、当たらずとも遠からずという意見があります。
歌詞の中で吉幾三は「俺らこんな村いやだ」と歌っていますが、後のインタビューで「こんな田舎で俺は生まれた。そして田舎が大好きだった」と故郷への思いを語っており、現在でも出身地である青森県の北西部の金木町(現:五所川原市)に居を構えています。
全然関係のないアーティスト同士の曲と曲を混ぜて1つの曲にしてしまうことを「マッシュアップ(mashup)」と呼ぶのですが、2008年にニコニコ動画やYoutubeといった動画サイトを中心に、吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」をマッシュアップに使用した曲が相次いで公開されました。
これを「IKZOブーム」と呼びます。
そのどれもが抜群の完成度を誇り、リリックの内容の面白さや、丁寧な押韻によるリズムの取りやすさ、1980年代の曲としてはかなり早いBPMによるChemical BrothersやCapsuleといったテクノ系アーティストの曲との相性の良さなどが注目され、次々とマッシュアップ曲が公開されたのです。
この中でも特に出来の良いマッシュアップ曲は「スンクロ率441.93%」という褒め言葉が使われ、441.93というのはヨシイクゾウの語呂合わせです。
そういったインターネット上のムーブメントにより、吉幾三に「IKZO」という愛称が定着、これは後に吉幾三から公式の愛称として認定され、2011年に放送されたNHKアニメ「へうげもの」のオープニングテーマ曲「Bowl Man」はIKZO名義で歌っています。
このブームは、個人が非公式に作成した楽曲を中心に発生したものですが、吉幾三はこのブームに対し
といった内容を発言しています。
そして、2008年11月19日にブームのきっかけとなったマッシュアップの作者と、吉自身による完全新規レコーディング曲を収録したマキシシングル「IKZO CHANNEL 441.93」が発売されたのです。
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さて、ここからは「IKZOブーム」を作り出した数々の楽曲の中から、今尚語り継がれる名曲中の名曲を厳選してご紹介しましょう。
当時のブームを思い出して聴くも良し、当時を知らない新規のリスナーには、吉幾三という稀代の天才ラッパーが、今尚愛され続けている事を感じていただけたら幸いです。
マッシュアップの鬼才Novoiskiが参加するユニット「moonbug」が手がけたStarrySky YEAH! RemixにIKZOを混ぜ込んだ名作。スタイリッシュなラップを披露するビースティーボーイズが霞むほどのIKZOラップに震える。
微妙な違和感から始まり、バチっとハマる瞬間が最高に気持ち良い。その気持ち良さはまるでスティーヴライヒのミニマルミュージックのような気配さえ漂います。現在DAOKOが牽引している、ハウス系の音に合わせるラップの先駆け的存在ではないでしょうか。
アニソンだって大丈夫。そう、IKZOならね。物語シリーズの名曲「白金ディスコ」も、一切の違和感なくバチハマりしてます。っていうか、もはやIKZO無しの白金ディスコはただの白金なんじゃないかっていう、ディスコの化身みたいな存在です。
日本映画界の巨匠「北野武」が監督を務めた名作「座頭市」のエンディングシーンであるタップダンス部分に、IKZOこと稀代の天才ラッパー吉幾三とビースティーボーイズがゲスト出演したこの曲。素晴らしいの一言です。
「♪ばあさんと!じいさんと!」っていうサンプリングのループが、もう脳みその気持ちいい部分を永遠と刺激してきます。聴き終わる頃には完全に洗脳完了って感じで、原曲が思い出せないくらいの格好良さです。
ミックスの妙が光る傑作。まさに、田舎出身のプレスリーと、伝説のポップスターが夢の共演といったところでしょうか。ジェームスブラウンも真っ青なソウルフルな歌いっぷりが最高です。
2000年にアンダーワールドを脱退したダレン・エマーソンの穴を完全にIKZOが塞いでいるとすら称されてる名曲。アンダーワールド特有のトリップするようなエコーとIKZOのラップが愛称抜群で、トレインスポッティングな気分にしてくれます。
SEGAのレースゲーム「Out Run」に使用された楽曲。「車もねぇ!」と歌いながらレーシングゲームのBGMすら乗りこなすIKZOのフロウが素晴らしい。IKZOブーム初期の名作である。
農道最速伝説と言われる傑作。イクゾーストノートを響かせてドリフトするトラクターが目に浮かびます。この曲を聞いてしまうと、IKZOがゲスト出演できない曲はこの世に存在しないだろうなと確信させられます。